変わらなきゃ救済
につれて
救済マニアのコレクション
如是庵*おっこです。
前回書いてから一月半が経過してしまいました。
いやもう、なんと申しましょうかこの間に頂きました皆さまからのたくさんの「いいね!」に心より感謝しつつ、
ただただ日常の時間に追われていた我が身を反省するばかりでございます。
本当にありがとうございます。
さて、今回はそんな我が身と被せるような内容となりますが、『予期せぬ災難』について
般若心経に絡めながら綴ってまいりたいと思います。
…と、その前に、先日、今年一年を象徴する漢字が発表されましたが、これが「災」でした。
この「今年の漢字」は毎年投票で決まりますので、多くの方々がこの一年を振り返って
天災、人災問わず、多いと感じたということなのでしょう。
災難、災禍、災害、災厄、災異・・等など、言葉としてあげるだけで、なんとなく気持ちが
重くなって来る感覚があります。
実際に今年は地震、台風、熱波等、想像を超える規模の自然災害の被害に
遭われた方々が大変多い年でしたので、けして軽はずみに口に出せるものではありません。
そのことを十分に心得た上で、この年の瀬に敢えてこのテーマを書かせていただこうと
思ったのは、この「災」なるもの、いつ自身に降りかかるのかが分からぬものゆえ
身の回りの物質面だけでなく、「心の準備」の必要性を強く感じているからです。
実は私自身、この2か月弱の間、いうなれば予測不可能だった災厄の渦中におりまして・・・
まぁ、何とか、ようやく方向性が視えてきた状態です。
まだ出口にたどり付くまではもうもう少々時間を要すると思いますが。。。
とはいえ、規模の大小、多寡に係わらず、誰の身にも起こり得るのが、この「災」・・・
予期も予測もできない状況下で、どう切り抜けていくのか?
頭を抱えながら、場合によって恨み言の一つや二つ、
いや、三つや四つ言いたくなることもありましょう。。
ぶっちゃけ申しますと、私はこの数週間、歯を噛みしめ過ぎたためか、
あごの骨が痛くなってしまいました。。。
でもね。。。
私も、そして、誰もが分かっているんですよね。。。
恨み言をいっても何の解決にもならないってこと・・・
私は幼い頃に親から刷り込まれた仏教の教えが自分の根っこ部分にあることを
ある程度自覚しながら生きてきましたが、今のように般若心経に親しみ、
諳んじられるようになったのはここ数年です。(5年以上10年未満?)
そのきっかけが当時の私がやはり大きな大きなうねりの中に放り込まれ、
もがき苦しみ、神仏のご加護で他者へ救済をが祈ったことからでした。
聖書の有名な言葉に「求めよ、さらば与えられん」というのがあります。
安易な考え方をすれば、神仏に誠心誠意の想いを込めて祈ったこと、
そして、その時の自分に与えられた手段(思いついた方法)が「般若心経」で、
まさに、自身が求めたことにより救済への道(他者からの協力等)を
得られたと思っていました。
でも、この「求めよ、さらば与えられん」に相反する言葉として、
仏教用語には「求不得苦(ぐふとっく)」という言葉があります。
要約すると、「求めているものが得られないことから生じる苦しみ」を指すそうな・・・
聖書の中の言葉を私はここで論じるのは控えたいと思いますが、
この二つの言葉を単にイメージだけで比較してしまうと
後者の方が生きていく上での覚悟を求められているような気がするのです。
もちろん仏教の教えは「大乗における他者救済」であることには違いはないのでしょうが、
「人として生きていく」ために、そして、その人生を全うしたのちのことも踏えながら
日々の修行として自分に与えられた荒波の一つが「災」とするならば< /p>
必ず乗り越えていける・・・ と、私は思っています。
いや、こんなふうに云えるのも、今やっと・・・なんですが。。。
凡夫であるがゆえ、途中途中で爆発寸前にもなりました。
身を置いた環境への憂さをはらしたくもなりました。
種をまいた人に対し、罵詈雑言を浴びせたくもなりました。
でも、どれもこれも結局は解決にはなりません。
なぜなら、すべて負に繋がる感情が起因しているからです。
目の前にある問題や災難を解決したいのならば、ネガティブな感情は
マイナス方向に増幅させてしまうだけ。。。
マイナス思考に自分が苛まれてしまうのであれば、
その思考や、そうなる場を避け、自分の心身を避難させることも必要な手立てです。
昔むかし、“『逃げる』と『避ける』は違う”と、師から教えてもらったことがあります。
『逃げる』は文字通り、単に逃げ出すこと。
しかし、『避ける』は、自分を守るための手段であること。
齢を重ねた昨今、つくづく思うのです。
この違いを理解し、日常生活の中で実践できるようになると、
人はその時々で賢く強くなれると。。。
世の中、自分の心の在り方だけで生きていけるわけではありません。
自分の周囲にいる人たちや、環境の影響を大きく受けながら生きていくわけです。
そして、人の心には目に視えぬ感情という魔物が棲みついているもの。
これは般若心経の中にも書かれている通りです。
時と場合によっては、自分と他者との間にその感情がもつれ合い、
そこに作用や反作用が生まれてしまいます。
これらが否応なく自身に降りかかってくる災厄に発展することが往々にしてあることも
私たちは経験の中で知っています。
そんなときは潔く撤退する(避ける)ことが必要なのかもしれません。
今日の一枚は私の愛読している般若心経ポケット版から
引用させて頂きました。観音菩薩さまのお姿ですね。。
それでは今日も最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
明日も明るく朗らかな一日を。。。 (≡^∇^≡)
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見ろ!救済がゴミのようだ!
妻のサマンサが、この映画を観た友達が「みんないいって言ってるよ」ともぞもぞしていました。
じゃあ久しぶりに一緒に映画に行こうということになりました。
1970年代から80年代に活躍したイギリスのロックバンド、クィーンを描いた映画「」です。
私が10代の時分、クィーンは斬新な音作りとメロディーでお気に入りのバンドのひとつでした。
それなのに、サマンサに声をかけられるまで、この映画を観ようとは思っていませんでした。
ロックのアルバムをあまり買わなくなったきっかけが、1970年代半ばにいったクィーンのライブだったのです。
◆ ◆ ◆
メンバーの姿がステージの照明に浮かんだ瞬間、ものすごい歓声があがりました。
中学生時代に初ライブにいった時分の大人しい空気から比べると会場の様子がすっかり変わりました。
ロックのライブには、この空気の方がロックらしいですよね。
1970年代初頭、来日アーティストは言葉を慎重に選びながら、日本の観客が大人しく=ノリが悪くて戸惑うと話していました。
ライブはその勢いのまま、演奏が開始され、クィーンと観客が一体で全速力で駆け抜けました。
観客としてスロー・スターターの私の気分は、ちょっと立ち止まっていました。
私はライブ開始時のまま波に乗り損ね、ひとりスタートラインに立ちすくんだまま、ライブは終えてしまいました。
◆ ◆ ◆
映画は、フレディ(vo) がブライアン(g)とロジャー(ds)に出会う場面から、アフリカの飢餓救済にミュージシャンたちが立ち上がった LIVE AID のステージまでを描いています。
次々湧き出すフレディの常識外れのアイデアと過剰なまでの自信。
テープが劣化するほど何度も音を重ねる録音風景。
成功につれ爛れていく私生活。大切にしたいのに徐々に離れていくメアリーとの距離。
他のメンバーも観客と一体になろうとする姿勢の変化と、フレディとの軋轢。
第一線から離れていくバンド活動。
私が行ったあのライブのように、2時間を超える上映もテンポよく駆け抜けるようにあっという間にエンディングを迎えました。
LIVE AID のステージのシーンはカメラワークまで実際に残されている映像の再現にこだわっていました。
◆ ◆ ◆
期待していた以上に映画に引き込まれました。
他の人より期待が低水準だったかもしれませんが。
私が実際に耳にしてきた音楽と目にしたライブの成功の一方で、陰の部分が映像化されたからです。
単に表に出ていなかったというだけでなく、傲慢、葛藤、不仲、孤独、退廃、病気といった負の部分をふんだんに描いています。
その末になんとかたどりつくことができた LIVE AID という舞台が、積り積もった屈託にある決着をつけ、読後感に相当する映画を観た後の気持ちの在り方を整理してくれました。
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