分け入っても分け入ってもオウンゴール
今日は3連休のなか日です。今日は、ビールが飲みたいからおつまみ中華にしよう!!←飲みたいのはいつもです。それでは中華の晩御飯、一気に行ってみよ~!!
まず、旬の茄子で、麻婆茄子を作って~、
茄子の紫の皮の部分にはポリフェノールが含まれていて、日差しの強い今、シミやしわから守ってくれるんです~!!
そして、隣のコンロで同時にチャーシュー風を作って~、
豚こまをぎゅっと握ってチャーシューの味付けにしたら、かたまり肉がなくてもすぐにチャーシューができますー。
そして、レンジでチンでもやしのナムルを作って~、
もやしをレンジでチンしたら、ごま油・塩・うま味調味料を和えるだけ!!
おつまみチャーシュー風ができた~!!
すぐに作れちゃうから楽ちん~!!
旦那「うまいね~!!」ってさ。焼酎をぐいぐい飲んでいました~。
そして、さっと炒めるだけもう1品!!
もやしとチンゲン菜と卵ときくらげです!!
卵ときくらげのオイスターソース炒めができた~!!
ビールにさいこ~!!オイスターソース炒めって、いくらでも食べられちゃうよね?
そして、温めなおして麻婆茄子もできた~!!
茄子味噌さいこ~!!夏は麻婆茄子だね~!!ご飯を食べたら、録画しておいたワンピースをみんなでみました。夏休みは、ワンピースの映画だな。
昨日の晩御飯は、しめて990円でした~!!
そして。
さっきさ、杏ちゃんとれんちびの試合に行ってきました~!!小学3年生。5試合戦います。
杏ちゃん「今日は暑すぎるだろー。」
暑くてものすごい不機嫌です。5分に1回水分補給です。
すると、杏ちゃん「冷たくてきっもちええ~。」
お兄ちゃんたちの保冷剤をいじるんじゃない。
杏ちゃん「こんなに暑いとバテてまうねん。」
水が入ったスプレーを自分にぶっかけてクールダウンです。
杏ちゃん「あらま、洋服濡れてもうたー。」
こうなったら最後です。全身にスプレーし始めました。
杏ちゃん「びっさんびっさんやでー。」
杏ちゃん、バケツかぶったみたいになってますよ。また風邪ひくなよー。
試合の結果はね、負けましたー。1分け4敗。
れんちび、もっと本気出せー。
どんだけ暑かったと思ってんだー。れんちび、1点決めたけど、1点オウンゴール決めました。本気でやらなきゃ見にいかん。
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オウンゴール あなたと、コンビに、Family Mart
日記を更新する。
今回は死刑について。
いや、死刑についてというか、死刑反対という発想について。
日本だと未だに死刑という制度はあるのだけれど、ヨーロッパ諸国とアメリカのいくつかの州では死刑が存在していない。
そこについて、どうして存在していないのか、大体このような理由なのではないかということを知っているので、それについて色々書いていくことにする。
とはいえ、僕はそうだと理解しているのだけれど、実際の具体的な理由は違うかもしれない。
もし違ったとしても、まぁ大目に見てもらいたい。
西洋世界では存外に哲学的な話が未だに影響力を持っていて、様々なところでそういうものを見出すことが出来る。
例えば、『サル学の現在』という1999年出版の本で、とある霊長類学者がドイツの霊長類学者について語っていて、あれはてんで理解出来ないと言っていた
話によれば、そのドイツの霊長類学者はドイツ観念論に染まり切っていて、彼の霊長類はドイツ観念論的な話で理解出来ないということだった。
おそらくは、ヘーゲル的な上への指向性というかなんというか、アウフヘーベンの発想を霊長類研究に持ってきていたのだと思う。
ヘーゲルって哲学のおっさんが昔ドイツに居て、世界の全てはぶつかり合って、その際に押し出された何かは上に向かって行って、世界は上に向かって、良い方向に向かって、どんどん進歩して改良されて今あるという主張を行っていた。
ヘーゲルのその思想の終着点は神概念であって、歴史や文化や進化は全て神へと到達する道筋だと考えていたらしい。
おそらく、先のドイツの霊長類学者は、猿を人間の過去の遺物として考えて、既に人間が脱却した古くて劣った段階にいると考えて、色々と書いていたのだと思う。
もっとも、言及は「ドイツ観念論で何言ってるか分からない」だとかだったから、あくまでおそらくそうなのだろうという話なのだけれど。
とにかく霊長類学者の中でも哲学的な情報を用いている人がいる程度には、西洋世界、特に学問の世界では哲学の影響が大きい。
確か以前に、コーラント・ローレンツという生物学者の本を読んだ時にも、哲学的な情報が存在していたような気もするし、同じ生物学者である、リチャード・ドーキンスが著書の中で哲学者のラッセルのお話(ラッセルのティーポッドについて)やイギリス経験論者のヒュームの言説を引用していたということがある。
西洋の学問の世界では、哲学的な情報はかなり浸透している。
それはおそらく、法学の世界にもかなり浸透していて、僕は死刑反対という発想について、おそらく、哲学的な知識がそれをそう判断させているのだろうと考えている。
どういうことかを以下で書いてく。
その話に入る前に、日本のとある弁護士の話をしておくことにする。
又聞きになってしまうのだけれど、ある人が弁護士をやっている人に、「どうして人を殺してはいけないのか」と聞いたときの話を僕は聞いたことがある。
その弁護士は彼に「殺人がいけないということに理由はない」と答えたらしい。
僕はそれを聞いて、その弁護士がカントの哲学の影響下でそれを言っているとすぐ分かった。
カントは道徳的な判断が正しいことに理由はないとその著書で言及している。
どういうことだろう。
哲学者は履いて捨てるほど過去には居たけれど、その中でも特段に有名というかなんというか、一人だけ特異にもてはやされる哲学者が居て、それはカントになる。
基本的に、カント以後の哲学はカントの研究といって差し支えはないのかもしれない程に、近現代の哲学はカントが基礎として存在している。
ヘーゲルもサルトルもショーペンハウエルもカントは読んでいたし、カント以後でおよそ哲学者と呼ばれる人の中で、カントを読んだことがない人なんていないんじゃないかと思う。
結構、そのカント的な発想は西洋の学問で見出すことが出来て、それは何も哲学だけではない。
文芸や芸術、社会政治や信仰の中に、そういった哲学的な要素が見て取れる場合がある。
カントはいくらかの本を書いたけれど、その中で三つのものが有名で、タイトルとかはまぁどうでも良いのだけれど、認識について、道徳について、そして価値判断についての三つの本を書いている。
その道徳についての本である、『実践理性批判』こそが、死刑反対という発想の元なのではないかと僕は考えている。
カントは…道徳判断が何に基礎づけされているかを理解出来なかった。
何故そのことを自分は悪いと判断するのか、反対に良いと判断するのか、それを判断する良心を何故持っているのか、それについてキリスト教的な発想を除いて答えを出すことが出来なかった。
結局カントはキリスト教徒で、人間の道徳判断は、神がその判断を人間に与えたからそれを持っていると考えていたらしい。
そもそも、道徳判断もそうだし、認識についても同じで、神の被造物である人間がそれらを持っているのは、神がそれを与えたからだと考えていたらしい。
カントについて僕はぶっちゃけ詳しくないのだけれど、カントのいう道徳判断が何に基づいているかについては、当時の哲学科長でカントの専門家である教授がそうであると言っていた。
まぁそうなんでしょうね。
道徳判断は神の与えた良心に基づいていて、正しいと思うのはそれは神がそう人間を作ったからであって、悪いと思うのは神が良心を与えたからだとかなんとか言っていたような気がする。
カントは道徳判断に”定言命法”という概念を持ち出した。
簡単に説明すると”何故”ではなくて”ただ”そうすることが、道徳的に優れている話であって、例えば「この落ちたハンカチを拾うと彼は喜んでくれる」と思ってハンカチを拾うのは劣った判断であって、「ハンカチを拾うことは正しい」と思って拾うということは道徳的に優れた判断であるらしい。
要するに、下心の一切を持たずに良いことをすると、それは道徳的に優れたことであるらしい。
まぁ、それは僕らの感覚的にもそうですよね。
基本的にカントの倫理ではそういう
心が悪いものだと考えられて、理由もなく行われる善行が至上のものであると考えられている。
その延長として、どんな道徳判断も「~のため」にという段階を挟んではイケなくて、例えば、ハンカチを拾うという行為は無判断で行わなければそれは道徳的ではない。
その様な発想を”定言命法”という。
このように道徳的な判断は考えた時点で等質の下がるものだと考えられていて、基本的に理由を与えた時点で駄目な判断であるらしい。
悪いことを悪いと思うに際しても、理由を差し挟んだ時点で劣った道徳判断になる。
そのように直観的に理解される道徳判断は、”何故”ではなくて”ただ”正しい。
言い方を変えると、「人殺しは駄目だから駄目で、駄目なことに理由はない」と言ったところだろうか。
ある事柄を悪と認識するということは、神がそれを間違っていると認識できる状態で人間を作ったからそう思うのであって、人間がそう判断を下すのは神の思し召しであって人間の理解できる理由はそこにない。
正しいことに理由はなくて、そのことは正しいが故に正しいという。
その正しいかどうかは良心が判断するのだけれど、その決定に”従わなければならない”と彼は考えた。
まぁ、それが神の命令なんだから、従うしかないという話なのだと思う。
勿論、カントにしたところで、その学説を考えるに先達の本を読んだり、先生の話を聞いたいするのであって、カントが一切を考えたわけではなくて、少なくともカントがそう言いだして、それが受容される素地は当時のドイツには存在していたからこそ、彼の道徳論は多く広まることになったのだと思う。
まぁカントが生きた街は今ロシア領だけれど。
悪いことが悪いのは、そのように直観的に判断されるからであって、そのことに理由はないという様な発想が、カント的な倫理観になる。
この発想は法哲学の中にもあるらしくて、実際、今現在その発想を受け継いでいる人も居るらしい。
先に言及した「人殺しがいけないことに理由がない」と言及した弁護士は結局、カントの議論を焼き直しているに過ぎないというのが実際になる。
カントは道徳判断に理由を見出すことが出来ずに、そのことは正しいから正しいと言ったと僕は理解していて、”似たようなこと”を弁護士資格を持った弁護士が言ったという出来事は、今現在まで法哲学の世界ではカントの”垢”が落ち切れていないという実情を示していると思う。
カント的に善悪の判断について、それをそう判断するのはそう作られたからそうするのであって、その良心は神が与えたものである以上、その判断を疑うことは神を疑うことになる。
だから、道徳直観は基本的に無条件で正しいものとなる。
僕らとて、殺人はイケないことだと考えている。
その理由付けに際して、それはイケないことだからこそイケないことだというのがカントの論法になる。
こんなことを言われても、昔の僕だったら反論の言葉も思いつかなかったよなと思う。
そして、殺人はイケないことだとして、国家による殺人である死刑はどうなのだろう。
考えてみる。
殺人=イケないこと。
じゃあ国家の殺人である死刑は?
ここにこそ、死刑反対の理由があるのだろうと僕は思う。
結局、道徳直観が殺人を否定している一方で、その否定している殺人を国家が行うのを良しとするというのは破綻したロジックであって、それを破綻させないようにするためには、殺人を否定する道徳直観を否定するか、国家による殺人ある死刑を否定するかのどちらかしかない。
一方で、殺人がOKだなんて言ったら迫害されかねないレベルの話である以上、行うことは死刑の反対になってしまう。
それこそが死刑反対という発想なのだと僕は考えている。
その発想はヨーロッパ世界で発生して、それが故にヨーロッパでは死刑のない国が多い。
じゃあ、そんな土壌にない日本で死刑反対という発想があるのは何故だろう。
死刑反対を訴えている人のことを思い出してほしい。
インテリばかりではないのか?
高尚な先生や弁護士などといった人々が、基本的に死刑反対と言っている。
僕はそれについて、結局、国際的な学会という場がそのような発想を彼らに育ませているのだと思う。
僕は哲学科出身なのだけれど、何度か教授が国際的な学会に出席するとかで授業が休講になったことがあったことを覚えている。
その時はインドで学会があると言っていたけれど、哲学の場合どんなことを発表するのか僕にはてんで分からない。
一方で、死刑反対と訴えるような高尚な先生方は、大学の教授であったりする場合もあると思う。
そうだった場合、哲学科ですら学会に行くのだから、法学だとしてもやはり、国際的な学会に行くのだと思う。
そういう場もそうではあるし、海外の法学の著作にはそのような死刑反対という発想について書かれているわけだから、彼らがそのようなことを言っているのは”欧米かぶれ”でしかないのだと思う。
もっとも、彼らは道徳直観が否定する国家による殺人を無くそうとしているだけなのだろうけれど。
西洋哲学には昔から、真理というというかなんというか、人から離れたところにある本当の答えというものがある。
この殺人がイケないという発想も、人から離れたところにある答えであって、全ての人類が共通してその道徳法則の下にあると考えているからこそ、その普遍的な正義のために死刑の廃止を訴えているのだと思う。
ここからがこの記事の本題で、じゃあ、その殺人はイケないという発想は普遍的なのかというのが問題になる。
カントの哲学の倫理だと、普遍的な答えとして道徳直観は正しいとしている。
僕は疑問に思う。
本当に全人類はその道徳直観を持っているのか、と。
そして、僕は答えを知っている。
全人類がそのような発想を持っているのではなくて、それはただ単にヨーロッパ世界の価値観でしかないということを。
殺人が悪なのは一部の世界の話であって、殺人が道徳的な悪ではない社会はいくつ
もある。
報復による殺人というものについて、いくつかの社会ではそのことは道徳的な悪ではなくて、報復のために行われた殺人は別に許されるという社会が存在している。
一つ例を挙げる。
マレーシアのある地域で、車を運転していた男性が急に飛び出してきた子供を轢いてしまった。
欧米や日本の場合、すぐさま車を降りて応急処置をしたり、救急車を呼ぶというのが普通の振る舞いになるし、それを行わないのは道徳的な悪になる。
マレーシアで起きたその事件に際して、交通事故を起こしたその男性はそういうことを一切使用とはせずに、そのまま走り去って警察署に向かってしまった。
何故そんなことをしたかと言うと、あの場面で車から降りたとしたならば、子供を殺したという咎でその場でリンチの末に殺害されかねなかったという事情があるからになる。
彼はその地域の人ではなくて、少し離れたところに住む民族出身だったのだけれど、そのような立場の人がこの地域で過失を犯すということはそういうことを意味していた。
詳しくはジャレド・ダイアモンドの『昨日までの世界』の2章を読んでください。
例えばこの場面で男性が暴行され死んだとして、それはきっと法の上では禁忌なのだろうけれども、実際に暴行を加えた人々はこの殺人のことを道徳的な悪であるとは考えていない。
カント的な発想だと、西欧で悪である殺人という振る舞いについて、西欧でそうであるのだから世界中の人類にとっても普遍的に殺人を悪だと考えている前提なのだろうけれども、報復のための殺人は必ずしも道徳的な悪ではない。
たしか、コロンビアでも報復による殺人は道徳的な悪ではなくて、ワールドカップでオウンゴールをしたサッカー選手が帰国後に私刑により殺害されたということがあったと思う。
勿論、法律としては悪なのだろうけれど、その法律はただ単に、西洋的な文化の元で編まれた法文を流用しているから悪なのであって、人間が生まれついて超越論的に殺人を悪だと考えているわけではない。
報復殺人について言えば、古代中国でも悪ではなくて、むしろ”義”とされるような行いだった。
『史記』という古代中国の歴史書の中にも報復殺人についての記述がいくつかあって、非常に優れた人物であったという信陵君という人物が、父を殺害された女性が報復できないで嘆いているところを代わりに報復して、首を切り落として差し出したというエピソードが存在している。
(横山光輝『史記』6巻pp.152-153)
ビジュアル的にこっちのほうが分かりやすいだろうと思って漫画版の方を持ってきたけれど、ちゃんと原作の『史記』の方で記述は存在していることは確かめている。
時々、横山先生は『史記』に書いてないことを『史記』って漫画で描いてたりするんだよなぁ。
まぁいい。
『史記』の中で信陵君は優れた人物として描かれていて、文脈的には彼が報復殺人を代替したのは、義に溢れる人物だからという話になる。
他にも游俠列伝の中にも報復殺人の記述が存在していて、復讐が果たされていない状況を不義だとして、復讐が成されるまでその殺された死体を道端に放置したという話がある。
他には、儒教の聖典である『礼記』にも報復殺人についての記述がある。
“不倶戴天の敵”という言葉を聞いたことがある人も居るかもしれない。
時たま、不倶戴天だけで用いられることもあるのだけれど、意味合い的に”不倶戴天の敵”まで使わなければ意味が通らない。
この不倶戴天の敵という言葉は、元は報復殺人を推奨する言葉の中から取られている。
「父のあだとはともに天を頂かない。仕えることもやめて、探し訪ねて必ず殺す。兄弟のあだには、武器を家に取りに引き返すようなことはしない。友人のあだは同じ国内に住まない。相手が自分を避けなければ殺す。国外に逃げれば追わない。(『全釈漢文大系12 礼記上』市原享他訳 1976年 集英社 p.83)」
不倶戴天というのは、共に天を戴かず、という話であって、あくまで父親を殺した相手とは天を共に戴かないという話だから、不倶戴天だけだと意味が分からなくて、敵とか仇とかまで付けなければ意味が通らない。
一応…引用元の本には、原文の漢字と書き下し分は併記されているから、そっちの方を引用したほうが良いかもだけれど、そんなものを持ってきても誰も読めないので、こういう風な方法を取ることにした。
「兄妹のあだには、武器を取りに引き返すようなことはしない。」というのは、武器を取りに帰るだなんて悠長なことをせずに、兄妹の仇はその場でぶち殺せという話であって、報復殺人は禁止されるどころかむしろ指示されている。
友人の仇については相手が避けなければ殺すと書いてあるけれど、つまりは相手が逃げたり隠れ住んだりという行動をせずにいて、その様な相手と道端で会ったら殺せという意味であって、そうと書いてある以上、それより重い兄弟の殺人はその場で殺せという話なのだと思う。
おそらく、友人の仇は同じ国に住んでいる間は殺しても良いどころか、殺すということが道徳的に正しいというのが当時の常識的な判断だったからこそ、そのような記述が存在し得ている。
『礼記』にこう書いてあるからと言って、古代中国人がみんなそう考えていたというわけではないのだけれど、一方でこのような文章が当時の価値観として荒唐無稽なそれだったならば、そもそも『礼記』に書かれない以上、ある程度はこういう発想は持っていたと考えたほうが良いと思う。
先にコロンビアなどでは法律上では報復のための殺人といえども悪であるだろうと言及したけれども、古代中国では報復のための殺人は法の上でも悪ではない。
これらのことを踏まえて、果たして人間は生来的に殺人を厭い悪だと認識する存在であると言及できるのか。
僕は言及できないと考えている。
カントはその殺人が悪であるという道徳的な判断のことを普遍的な直観だと考えたのかもしれないけれども、結局、それはアジア大陸の西の方の一部の地域の常識でしかなくて、全然普遍的な判断ではない。
少なくとも古代中国的な価値観だと、仇にあたる人物を殺害するという私刑は道徳的な正義になる。
今回
は殺人に話を限ったけれども、カントが悪だと考えた嘘をつくということについて、儒教や仏教ではカントとは違う見解を持っている。
『論語』では親のためにつく嘘はついてもいいという言及があるし、大乗仏教の『維摩経』は道徳的に優れた人物であるヴィマラキールティが嘘をついて仏陀の弟子を呼び寄せる物語になる。
嘘はどの世界でも必ずしも道徳的な悪であるわけではないし、カントが普遍的であると考えた道徳判断は、結局、西洋の常識でしかないというのが実際になる。
僕はそのような事実があるのだから、カントの倫理は西洋世界でしか通用しない愚論であるし、それを押し付けてくるような人々は傲慢でしかないとしか思えない。
更に言えば、そのようなカントの文脈での直観で下される判断に何らか価値があるという発想は、高尚な哲学者であるカントがそういったからそれが正しいと思い込んでいるだけで、ちっとも正しくないのだろうと僕は思う。
そもそも、哲学のお友達がある行為を道徳的な悪だとか正義だとか考えたという場面について言えば、その場面に至るまでの様々な経験と生まれついての遺伝的な資質がそれをそう判断させているだけであって、西欧では例えば嘘をつくということについて、そのことが絶対的な悪であるという文化があるから、嘘をついてはいけないという判断が下されたに過ぎない。
特に日本人について言えば、カントの道徳論を正しいと思う人の中で、果たしてカントに出会う前にその発想に至った人がいたかといえば、おそらく殆どいないわけであって、先天的に道徳判断は存在していると言っている当人が、獲得した情報を用いて道徳判断を行っている。
僕は何故その矛盾に気付かないのか、良く分からない。
とにかく、死刑を反対するという振る舞いは、そのような”事情”に理由があるのだろうと僕は考えている。
加えて、キリスト教的な倫理観だと殺人犯でもその罪を許さなければならないという発想があるから、そういう意味で死刑が駄目ということもあると思う。
さて。
死刑廃止の発想について色々書いたけれれど、じゃあ、死刑は悪なのか、正義なのか、やって良いものなのか、イケないものなのか、どの判断が正しいのか。
僕はそのことについて、知らないと答える。
というか、決めるのは僕じゃないのであって、考えても仕方がないことは考えない。
ただ、今後日本で死刑禁止が決まったとしたならば、西洋的な文化圧力に司法は敗北したのだなとただ思う。
日本の道徳判断は基本的に儒教などの中華的な発想に基づいているから、そのような報復殺人はむしろ正義だと思うけれども、まぁ、日本でも死刑が禁止になったらそれは仕方がないことだと思う。
この地球上のすべての情報は淘汰圧に晒されていて、淘汰圧に強かった情報が残ってゆき、そのような情報が今ただ存在している。
日本で死刑が禁止になったとしても、死刑という価値判断が淘汰圧に弱かったのだろうとしか僕には理解出来ない。
という話。
高校生でも分かるように心掛けて書いているけれど、カントを高校生に分かるように説明しようとすると色々無理がある。
それと一応、カント的な倫理について、そのイデア論的な発想が間違っているという話もしようと思ったのだけれど、イデア論の説明が面倒だからいいや。
まぁ話としては、数学や論理学の世界に真なる答えがあるということは、僕らの認識や僕らの世界の道徳判断には関係のない話であって、僕はそのロジカルジャンプについて、ただの暴論だと言いたかったのだけれど、疲れてきたから今日は以上になる。
結局、ここまで読んだ人は大分疲れただろうけれど、僕はこれから2度3度読み直して誤字修正などをしなければならないから、色々大変なんだよなぁ…。
まぁ2度3度では済まないし、好きでこういう事は書いているのだけれど。
あと、殺人が悪であるかないかについていえば、そんなことを聞かれて「殺人は悪ではないのではないか?」だなんて言えないということも実情であって、非純判断としてみんな、殺人が悪である前提で議論を進めている部分もある。
非純判断を前提に置かずに、殺人が悪じゃないだなんて言っている人が目の前にいたら僕はドン引きするし、絶対に仲良くなりたくないと思うから、非純判断は行われているよなと思う。
僕は倫理の場面で非純判断が認識されている場合に遭遇したことはないけれど。
そんな感じ。
では。
オウンゴール はたらくを楽しもう
9月10日(月)
[TM]vs神戸大学
9:30K.O.(45×4)@第4F
[スタメン]
GK 松本(龍)
DF 福重 粟田 佐藤 臼井
MF 渡邉(裕) 渡邉(英) 上田 徳田 曽木
FW 中村
[サブ]梅木 柿本
〈1本目〉
0-0 交代なし
〈2本目〉
0分 徳田OUT→柿本IN
福重OUT→梅木IN
4分 柿本GOAL!(1-0)
31分 曽木OUT→徳田IN
41分 失点(1-1)
〈3本目〉
GK 村西
DF 木下 里岡 小林(陸) 伊佐
MF 山田 太田(潤) 山下(諒) 柴田
FW 小延 吉岡
[サブ]成岡 高松 神谷 鈴木(吾)
8分 オウンゴール(1-0)
〈4本目〉
0分 村西OUT→馬場IN
太田(潤)OUT→高松IN
山下(諒)OUT→成岡IN
吉岡OUT→鈴木(吾)IN
小延OUT→神谷IN
14分 失点(1-1)
16分 山田GOAL!(2-1)
17分 鈴木(吾)GOAL!(3-1)
22分 山田OUT→小延IN
柴田OUT→山下(諒)IN
24分 高松→里岡→鈴木(吾)GOAL!(4-1)
28分 神谷→鈴木(吾)GOAL!(5-1)
32分 伊佐OUT→太田(潤)IN
37分 神谷→木下→鈴木(吾)GOAL!(6-1)
▽試合結果
1,2本目(△)1-1
3,4本目(○)6-1
▽得点者
柿本
山田
鈴木吾×4(高松→里岡、神谷、神谷→木下)
▽試合風景
オウンゴール あなたの、あしたを、あたらしく
バルデラマ、フレディ・リンコン、ファウスティーノ・アスプリージャといったタレントを擁し
94年アメリカ大会では、南米予選でアルゼンチンを5-0と一蹴するなど完全に強豪の地位を築き上げ、優勝候補の一角に名前を挙げられるまでになった
この大会で、DFを務めたアンドレス・エスコバルを襲った事件は今もワールドカップ史上最悪の事件として語り継がれている
エスコバル選手は代表では主将も任されるなど、南米屈指のディフェンダーとして知られていました。
1994 FIFAワールドカップ本大会グループリーグ、コロンビアとアメリカとの試合。コロンビアのDFだったアンドレス・エスコバル選手は、前半35分に痛恨のオウンゴールを許してしまう。
その後も追加点を許したコロンビアは、終了間際に1点を返すも届かず、1 – 2 で敗戦。
コロンビアは1次ラウンド敗退した
・すると、オウンゴールをしたアンドレス・エスコバル選手が帰国後まもなく射殺されるという衝撃的な事件が起きた
1次ラウンド終了後、代表チームはアメリカで解散となり、選手の多くは国民の非難や報復などの後難を恐れて帰国を拒否してアメリカに留まった。
しかしエスコバル選手だけは「自分はあのオウンゴールについてファンやマスコミに説明する義務がある」として帰国しました
コロンビア第2の都市メデジン。世界最大といわれた麻薬組織の本拠地だった街で事件は起きた
帰国後、地元メデジンのレストランにいたエスコバルは数人に囲まれ、「オウンゴールをありがとう」という言葉とともに、12発の銃弾を打ち込まれた
ご冥福をお祈り申し上げます
オウンゴール伝説
写真はNTV画像
オウンゴール 関連ツイート
試合終了、山形3-3松本
得点者:
[13分]高崎寛之(松本)
[26分]飯田真輝(松本)
[57分]栗山直樹(山形)
[60分]小林成豪(山形)
[64分]オウンゴール(松本)
[90+3分]中山仁斗(山形)
#m…
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