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藤原定家 古典書写と本歌取【電子書籍】[ 依田泰 ]
藤原定家 古典書写と本歌取
【新品】【本】藤原定家 古典書写と本歌取 依田泰/著
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藤原定家 古典書写と本歌取 [ 依田泰 ]

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本歌のトピックス

    そこで、今回は志野の名品のなかでも知るひとぞ知る奇作「蓬莱山」をお願いした。前回の「玉川」のときには「いくつか焼いたなかでひとつしか取れませんでした」と酒器展の会場で初のお目見えとなったが、今度はいくつか生き残ったようで、その1、その2として二点の写真を送って下さった。やはり写真だけではなかなか判断しづらいとはいえ、その1のほうはダイナミックな形が、その2のほうは火色のよく出た焼きがよかった。大きさはどうですか?と作家に尋ねると、「その1はかなり大きいです。その2はふつうですかね」とのことだった。「蓬莱山」はやはりダイナミックな動きが魅力なので、前者を選んだ。いざ実物を拝見すると、想像以上にこれが大きい。湯呑みサイズに届かんばかりで。ただ、本歌のダイナミズムを表現するには、これくらいの量感があっていい。事実、形式はずいぶん動いている。とりわけ、高台のつくりに感心した。畳付に向けてやや開き気味の撥高台が中心からずれたうえに少し歪んで本体を支えている様子や、志野によくみられる二重になりかけの削りは、全体の造形をさらにダイナミックにみせている。

    志野といえば、腰の張った半筒形を基本にしたものがほとんどだが、この「蓬莱山」は腰の丸い碗形であることが珍しい。碗上部がすっぽん口になっているところをみると、桃山の陶工はあるいは天目を意識したのかもしれない。だとすれば、この崩し方は尋常ではない。均衡のとれた静溢な形式の天目を、まるで図太い竜巻が巻き起こるような形式に変換させたこの意匠は、格のある形態を崩していくという志野の性向を最も極端に体現している。この茶碗は、まさに荒ぶる志野の代表であり、どんな志野にも多かれ少なかれそれが備わっているという意味では、志野茶碗の原点にあるといっていい。この作品にみるダイナミズムこそ桃山のそれにほかならない。
    山田さんには、この二回のお願いで、結果として志野の両極にある作品をつくって頂くことになった。前回の「玉川」 は、おそらく向付から転用された茶碗で、もともと茶碗として生まれた作品ではなかった。だから、黄瀬戸と同様格のある形式で、引き締まった緊張感に凛とただずんでいる様子が何ともいい。いっぽう、今回の「蓬莱山」は、生まれながらにして志野茶碗で、格のある形態が崩れてやがて織部へと至るダイナミズムの原初に位置する。現在に伝わる桃山志野には、このふたつのタイプが混在し、その点が志野の造形に多様性をもたらしている。前者は食器や花入に多く、後者は茶碗や水指に多いという傾向はあるものの、伝世品はおよそこの両極の間にあるといっても過言ではない。対照的な形式にある両者ではあるが、単に美しい衣装を着た棒立ちではないという点では一致している。喩えるならば、「玉川」は折り目正しい日本舞踊のような所作を感じさせるのに対して、「蓬莱山」はアクロバティックな現代舞踊のような激しさをもつ。つまり、その性質に違いはあれ、いずれも動いているということに変わりはない。この動きこそが志野の本質をなし、その形式を決定する。
    それにしても、遠方の個展会場から作品をわざわざ送って頂くなどというやり方は、山田さんのケースをおいて他にない。それほどにこの方の作陶には思い入れがある。山田さんは、故加藤康景氏のお弟子さんで、氏の時流に流されない志野の正当な後継者である。筆者が初めて美濃を訪ねた二十年くらい前は、新旧の人間国宝の影響を受けた志野が主流で、そこから一歩も二歩も引いた康景氏の志野は孤高の魅力を放ってみえた。その康景氏が不慮の事故で早世し、あの、土のなかからぬっくと立ち現れてきたかのような原初的な志野をつくり得るのは、もはや山田さんしかいない。筆者がこの方に写しをお願いするのは、名作への憧憬によるばかりではない。荒川豊蔵とも鈴木蔵とも違う康景氏譲りの衣装を、志野の踊る形式に着せたらどんな舞踊が演じられるのか観てみたいからにほかならない。山田さんは至極謙虚な方である。御自作にもそれが表れることがままあって、それが山田志野の良い部分でもあり、ときに悪い部分ともなる。だが、今回の作品でこの方も威張ろうと思えばしっかりと主張できることが証明された。来年の初めには名古屋でまた個展をされるという。今度は遠隔のやりとりではなく、実作を賞味できる。そのときに向けて今から手ぐすねひいてワクワクしている。

「愛されたい!」と思ったときに試してみたい3つの本歌

・・・主題派「第52回大作展」、本日まで。通常の作品展は年2回開催で、もう122回(於:ギャラリー香)を数えます。そもそも「主題派」は、何をどう描くかという主題=テーマ性に重きを置いているところに特徴があります。ただ描くことが好きで集まるにとどまらず、この機会を有意義に、一人ひとりの研鑽の場とするために年1回はテーマに基づいて、あえて「大作」に挑もうという趣旨であると私は理解しています。当初、それが負担であったことは事実です。さて、今年のテーマは「知る」でした。テーマ委員が集まり、原案を練り全体の承認を得て決定するわけですが、今回はかなり混迷を極めました。言葉は簡単ですが、表現するとなるとかなりの難問です。各自の葛藤の様子が、搬出前に語り合われます(合評会)。 

《主題派美術No.52(2018.8発行)巻頭言》 

「知る」= 自分自身を知り、次の課題を知る = 

福岡出身の洋画家・坂本繁二郎は「写実はあくまでも道であって★目的ではない。目的は写実以上のところにあるものだ。」と語った記録がある。このことから表現というのは、平面・立体表現、具象・非具象表現を問わず、★現実から出発するが、現実そのものではないということで、ただものの表面の★説明だけに終わってはいけないということである。作品の裏側に秘められた制作者の気持ち(★エスプリ)が大切で、制作者の思考の深さ、豊かな想像力、独創力、人間性を感じられなければ、作品の本当の魅力はないという、含蓄あることばである。美術団体による公募展、グループ展、個展など活発に展開され、積極的に取り組んでいて、評価を得ている反面、「マンネリ化が続いている」「低迷下している」という厳しい声も少なくない。表現が通俗的、習慣的になったり、自己流一辺倒の制作で満足していないか、情緒的に流れ、表現意識の不徹底さや曖昧さがないかが問われているのである。私たちは今、制作者として「自分の表現とは何か」「自分を磨き、自分の世界をどう創りだしていくのか」をみつめ直し、★今の自分を「知る」ことが大切ではないだろうか。未完成であっても新鮮で個性的な表現をめざして努めているが、一人ひとりの制作者はいろいろな思いや考え、経験などをもとに表現に向かっている。この機会に描く・つくることの表現の大義はもとより、テーマの選定、表現動機、構図や構成、材料・用具、いろいろな技法などについて、改めて★自分をみつめ直し、自分を「知る」こと、★次の課題は何かを「知る」ことは、今後の表現につながっていく。鑑賞者が求めているのは、表現の大義を明確に持っているか、造形の節度と秩序、作品にどれだけの★生命力と★品格があるのか、どれだけ精神のうるおいがあるのか、どれだけ内なる息吹が漂っているのか、熱気や真実があるのかなどであろう。坂本繁二郎のことばに近づくためには、日々の研鑽と精進しかない。(平成30年度テーマ委員) 

・・・この巻頭言に、いたく感動された来館者もおられましたが、再度噛みしめたいと思います。(★印)

《参考》ヤフー「知恵袋」より 

「知」は、「矢」と「口」の合字で「言葉をすばやく聞く」意味で、「しる」と訓読みします。「智」は、「知」と「白」と「云」の合字で「物事を明らかにする」意味です。通常は動詞として使われません。古文ではもっと複雑な字体だったものが、その後「智」になりました。「知」と「智」の違いは、「智」の方がより頭脳の働きに重点を置いていることと言えるでしょう。ただ、現在では、熟語で「智」を使うところを「知」で済ませているため、両字の意味の違いは薄れてきているように思えます。 

※「広辞苑」より 

●知恵・智慧/1.ものごとの理を悟り、適切に処理する能力。2.(仏教)梵語で「般若」、普通智慧と表記。真理を明らかにし悟りをひらく働き。宗教的叡智。六波羅密の六。または「慈悲」と対比して用いられる。3.(ギリシャ哲学)ソフィア、4つの元徳の一。古代ギリシャ以来さまざまな意味を与えられているが、今日では一般に、★科学的知識とも利口さとも異なる、★人生の指針となるような、人間と深く結びついている★実践的知識をいう。 

●知/1.知ること、知らせること。2.知り合い。3.(智の字を用いて)さとること。ちえ。 

●智/1.ものごとを理解し、是非善悪を弁別する心の作用。ちえ。知能。2.賢いこと。もの知り。3.仏教用語では多く「知」は一般分別・判断・認識の作用。「智」は高次の宗教的知の意味に用いる。 

●恵/1.知恵、智。2.(仏)般若。ものごとを明らかに知る精神作用。徳に宗教的英知。→けい(恵・慧) 

・・・どうやら、★印をつけたところが本質のようです。十分に理解したとは言えませんが、制作を通してどんなことを考えたか整理しておきたいと思います。

《(知的)好奇心》 

好奇心とは、物事を探求しようとする根源的な心。自発的な調査・学習や物事の本質を研究するといった★知的活動の根源となる感情を言う。 

《好奇心は「情報不足」の時に活性化する》 

テーブルにありあまるほどご馳走が並んでいると、さほど強い食欲は感じませんが、食欲が強まるのは空腹の時、しかも目の前に十分食べ物がない時です。 

・・・簡単に言ってしまえば、(知的)ハングリー状態ですね。ただ、とても個人差があります。「そんなの関係ねえ」とか「興味ない」とそっぽ向かれることもしばしばです。今の生活に「満足」している人は少ないかもしれませんが、「満足」させられている=(表現はあまりよくありませんが)「飼いならされている」可能性は多分にあると思います。必要とする前に、次々「新製品」が発売される。これからの「流行」は○○ですと、「と
りのこされ感」をかきたてられる、などです。これらはすべてが無駄だとは思いませんが、現代社会における「情報過多」が本来の「知的好奇心」を阻害し、言うなれば「ゆがんだ好奇心」への道を歩んでいるような気がしてなりません。さて、美術・造形の場合を考えてみましょう。 

《参考》「写実絵画と写真-写実の追求-」より 

●絵画の起源/原始時代の洞窟に描かれた壁画→獲物を捕らえる困難さや危険→「写実」「記録」という目的が中心→この後人類は『写実』の精神を受け継ぎ、様々な工夫によって本物そっくりに作り上げることに努力する。 

●ルネッサンス芸術/三次元の事象を二次元に写し変える手段→「遠近法」の発明 

●写真の発明/「写真」によって示された「現実」→科学的な視野をもって描くことの必要性を認識(例:走る馬の足の運び方)→静止していない動物や旅先の風景などを「写真」によって保存できたことで、モチーフの細部まで丁寧に描くことができる→これまでの絵画とは違った表現を生み出すことになる 

※写真家達も、画家達が何百年と培ってきた構図の妙やモチーフの選び方など多くを学び、ピントボカシや魚眼レンズの採用など技術的な工夫と相まって、絵画とは一味違った方法でその芸術性を高めていく。 

●共存/同じ“写実”の概念を持っていても、2つの芸術分野はそれぞれの守備範囲を微妙にずらして、現在でも芸術的地位を独自に保っている。 

・・・とてもうまく整理されています。そして、次のように結ばれています。 

さて、絵画における『事物の写実』は20世紀において究極(例:スーパーリアリズム)に達した感がありますが、これで頭打ちなのでしょうか?次に芸術家は、目に見えない物、例えば人の気持ちといったものを写し取ろうとするのではないでしょうか?いうなれば『観念の写実』です。現在「抽象芸術」と呼ばれるものの中にはそれに類する物があるように思われてなりません。もっとも、人に見えない非客観的なものを描くことを★「写実」と位置づけることには問題があるかもしれません。しかし、今後写実絵画を始めとして、写真や映画など本来写実性が強い芸術分野が、より高度な写実を生み出すには、目に見えないものを写実する、つまり人の気持ちなどを普遍的に解釈して写していくしかないとも思うのです。我々の時代はそれほどに写実が成熟していると言えるのです。 

・・・「写実」を前提としないものも多くありますが、「写実」を★通過しなかった芸術表現はないように思います。あるとすれば、象などの動物に結果として絵を描かせること。結論として、①「眼で見た(見えた)こと」②「頭や心で考えたり感じたりしたこと」をどう表現するのかという一点です。もしくは、③両者をどう「融合」させるかです。

・・・主題派大作展においては「テーマ」が前提としてありますので、①を基本に制作されてきた方は、本当に③でご苦労されると思います。私の場合、ダイレクトに②で制作してきましたので、「融合」の苦労はありませんが「テーマ」へと昇華・結実させていく努力は当然必要なわけです。しかし、「努力」や「苦労」するために描いているわけではありません。根本は「楽しい」と感じれるかどうか、「遊び心」が充足するかどうかなのです。でなければ、「描く」必要などどこにもないのですから(生きるための最低条件=衣食住ではない)。そうそう、最近思いついた言葉が「衣・色・住」です。最近の私の生活を端的に表現していると、自己満足しています。 

・・・「知」というテーマに挑むにあたって、まず「写実的」にイメージしたのが「大脳」です。昔々、知的好奇心から「大脳生理学」をかじったことがありました(何一つ残っていませんが)。 

《大脳生理学》 

動物や人間の★行動を支配する大脳の★機能を研究する学問をいう。人間では意識、感情、記憶、注意といったさまざまな精神機能の★形態学的基盤も研究の対象となる。 

《参考》杉山崇先生の大人の人間関係(3)@神奈川大学より 

人間の脳は古い脳に新しい脳がかぶさるように進化してきた。そしてそれは、人間が赤ちゃんから大人になっていくまでの過程でもあらわれる。それがワニの脳、ウマの脳、サルの脳、ヒトの脳だ。脳は中心から外側に向けて、古いの脳の上に次世代の脳がかぶさるような形で★進化してきた。それをシンボリックにあらわすのが、ワニの脳、ウマの脳、サルの脳、ヒトの脳という考え方だ。ワニの脳は、いわば★本能のままに★快楽を求める脳だ。「春眠暁を覚えず」の今の季節であれば、「布団の中でゴロゴロしていると気持ちいい!」と感じるのがワニの脳だ。「めんどくさいことはイヤ~」「食べ物おいし~」と、とにかくこの瞬間の快楽だけを追及して好き勝手なことばかりを考える。これを杉山先生は『ワニの好き勝手脳』と呼んでいる。この『ワニの好き勝手脳』に対して、「布団の中でゴロゴロしてばかりいると遅刻してしまうよ」と教えるのが、ウマの脳だ。私たちの身の★安全をモニタリングし、★これからの快楽を考える脳で、「これおいしいからもっとちょうだい」とか「これ嫌いだからあっち持って行って」などの★好き嫌いなども判断するので、『ウマの好き嫌い脳』と杉山先生は名づけている。このウマの脳の段階で、愛着に基づいたシンプルな社会は形成されるという。しかし社会が大きく複雑になっていくと、さらに高次元の脳が必要になってくる。それが、★社会的な立場を考えるサルの脳だ。「仲間と仲良くしておかないと食事にありつけないな」とか、「あいつより俺のほうが強くて偉い」などと、★関係性やヒエラルキーなどを考えるのもサルの脳。これを『サ
の社会脳』と呼んでいる。しかし社会がさらに複雑化してくると、その中にある共通のパターンを見つけて、そのルールに則って物事を行うと★有利に事が運ぶことに気づいてくる。つまり★「課題」を見つけて「戦略」を「計画」するようになるのである。これが『ヒトの計画・戦略脳』だ。「この仕組みはどうなっているのか」「これを選択するとどう変わるのだろうか」「ミッションを達成しなければならない」といった意識がこれにあたる。また、集中力をもたらしたり、感情などを抑制したりするのも、『ヒトの計画・戦略脳』の役目だ。 

ワニの脳、ウマの脳、サルの脳、ヒトの脳。この4つの脳が★バランスよく働いてこそ、バランスよく暮らしていけるのだと、杉山先生は説く。そのバランスが崩れ、たとえばヒトの脳が過剰に働いているのにサルの脳がうまく働いていないと、空気が読めないといった状況になってしまう。では、人間の幸せに直結するのはどの脳なのだろうか。一瞬、サルの脳かなと思うが、脳科学者の議論では、ウマの脳ではないかといわれているらしい。ウマの脳をより満足させるため、自らの社会的安全を獲得するサルの脳が発達したと考えられているからだ。サルの脳は、周囲の人の気持ちを忖度してご機嫌を見て自分の立場を確保するための脳である。では、なぜヒトの脳は必要だったのか。社会が複雑がすればするほど、ヒエラルキーも複雑化し、ヒエラルキーの上位にいかないと不利になってくる。そこで、「ヒエラルキーの上位に行きたい!」というサルの脳の欲望を達成するために、課題の達成をめざすヒトの脳が獲得されたと考えられるという。つまり幸せのもとをたどれば、馬の脳による安全・安心の追求にあり、その社会的安全を充足させるために上昇志向のサルの脳ができ、サルの脳の上昇志向を満足させるためにヒトの脳ができたのだと考えると、もはやこれは★人生そのもの、といった感じである。 

・・・とてもわかりやすいのですが、実生活・実社会は複雑で「そのとおり」(脳)なんですが日々、一喜一憂・悲喜こもごも(心)=人生そのものですね。ここで気付いたのが、人生における「脳」(ハード)と「心」(ソフト)の問題です。研究としては、どちらかにスタンスをおいて進めていかざるを得ないわけですが、最終的に「融合」できなかったら結論は見えてこない、ひょっとしたら結論なんてないかもしれない。でも、「結論がない」という結論も重要ですよね、まるで「宇宙」です。とりあえず私は、「大脳生理学」めいた?芸術表現として「ハード」面からのアプローチ、制作していきたいと思っているわけです。その場合に重要視するのが」、もちろん「色・形・素材」です。写実表現においては、描く「対象(モチーフ)」に触発されて次に、それらが吟味されるわけですが、私の場合はダイレクトに「色・形・素材」に触発されて「造形的」に制作がスタートします。「ニワトリ」が先か「タマゴ」が先か、みたいなものですね。今回は、出発段階にテーマ「知る」という味付けが要求されているわけですから、「色・形・素材・知る(脳)」ということになるわけです。むむむ 

・・・行き詰った時は「破壊」する。壊すということではなく、今までとは違う「新しい」手法を用いることです。しかし、なかなか新しいことなんてありません。そこで、「過去」の事であっても最近やってないなあと思うこと(忘れていたこと)を「思い出」してやってみるようにしています。そういう意味で、長く描いてきた(いろいろやってきた)という経験は無駄ではありません。近頃では、中学校・高校時代の事がやたらと思い出されます。50代60代になって「同窓会」で集まりたくなる心境に近いかもしれませんが、私の場合はその頃の作品であったり制作の過程を振り返っています。すべてが「新鮮」な時代でもありました。ちょっと話が長くなり、とめどなくなってしまいました。本題に入ります。

(1)「知る」というテーマに迫る手法として「脳」を描く。 

(2)写実的に「脳」(形)を表現するのではなく、画面そのものを「脳」とする。 

(3)え~い、とにかく「ぶった切る」。 

(4)すると「右脳」と「左脳」、中央に「脊髄」が見えてくる。すなわち「中枢神経系」が整ったわけである。 

(5)「右脳」「左脳」はもちろん「左右」であるわけですが、脳は「立体」ですから「前後」もありますので、画面(キャンバス)の「表裏」に描いていきます。最近は「平面」でありながら「立体的」な表現が多くなっています。 

(6)大好きな「ニューロンneuron神経細胞」や「記憶の断片」をちりばめていきます。脳内の「鬱蒼とした★内なる宇宙空間」を紡いでいきます。 

《参考》「脳はここまで解明された―内なる宇宙の神秘に挑む」 

編:合原一幸/ウェッジ選書2004 

機械に意思と感情はあるか?細胞のカタマリになぜ人は動かされるのか?脳を知るために脳を創る、科学のあくなき挑戦!フォーラム「地球学の世紀」において「地球システムと脳」というテーマで議論された内容をまとめる。

《参考》高橋コレクション★「ミラー・ニューロン」展 

2015年4月18日(土)~6月28日(日) 

東京オペラシティ アートギャラリー[3Fギャラリー1, 2] 

「高橋コレクション」は、精神科医★高橋龍太郎氏の収集による現代アートのコレクションであり、1990年代以降の日本のアートシーンを俯瞰するうえで欠かせない存在として、内外で高く評価されてきました。1990年代に収集を本格化させた高橋氏は、奈良美智、村上隆、会田誠、ヤノベケンジといった、現在日本を代表する作家たちにごく早い時期から注目し、彼らの重要作品を次々と収集し、一躍現代アートのコレクターとして名を馳せます。また、近年ではより幅広いコレクションを志向し、「もの派」をはじ
キャリアの長い作家なども積極的に収集する姿勢を見せています。高橋氏の収集に注ぐ情熱は、つねに日本のアート、日本の文化に対する溢れる愛情と透徹した眼差しに裏打ちされているのです。本展は、高橋氏が日本のアートと文化を考えるためのキーワードとして提案する「ミラー・ニューロン」をタイトルに、より包括的で歴史的な視野から、かつてない規模で「高橋コレクション」を紹介し、日本の現代アートの流れと特質を読み解いていくものです。草間彌生、舟越桂、名和晃平、Chim↑Pomら52作家、約140点の作品を通し、現代アートの息吹を生き生きと体感することができるでしょう。 

今回新たにタイトルに選ばれた「ミラー・ニューロン」とは、他者の行動を見て「鏡」のように自分も同じ行動をしているかのように反応する神経細胞を意味し、それは他者との共感や模倣行動をつかさどるとも考えられています。本展においては、日本の現代アートに広く見られる「なぞらえ」の作法が、「模倣」「引用」などを重要な手段とする現代アートの世界的潮流だけでなく、「見立て」や「やつし」といった伝統的な日本の美意識とも通底していることを意識させるキーワードとなります。 

※本展によせて/コレクター・精神科医:高橋龍太郎 

ミラーニューロンはイタリア、パルマ大学のジャコモ・リゾラッティによって、1996年発見された神経細胞である。実験者がエサを拾い上げたときに、それを見ていただけのマカクザルが、エサを取るときと同じ脳の部位が活動したことに由来する。このように他者の行動を自分もやったかのように映すニューロンは、人間にも存在することが確かめられている。人間はこのミラーニューロンによってもたらされる模倣行動によって、他者の行動を理解し共感する。人間の言語をこのミラーニューロンによって獲得されたものとする学説もある。しかし人間にとって最大の模倣は自然への模倣だろう。アリストテレスは、芸術は自然を模倣するとして、模倣(ミメーシス)を人間の本質と高く評価した。1980年代以降現代アートは模倣と引用によるシミュレーショニズムの影響なくしては語れない。しかしシミュレーションといえば、日本には本歌取り、見立て、やつし等、千年の歴史がある。とするなら日本の現代アートシーンは、正面に西欧のアートミラーがあり、背後に千年の伝統ミラーを見据える合わせ鏡の只中にあることになる。それは世界のアートシーンのなかの稀有な痙攣する美になるのか。はたまた無限に映し返される煉獄に過ぎないのか。 

・・・むっちゃ観たかった展覧会です。知った時は、すでに「過去」のものでした。 

(7)表現は、これまでの「集大成」に近いほど様々な手法を用いています。大作ならではのことです。 

(8)切り取って生じた「空間」そして「脊髄」をどう構成するのか、結果として「モビール」のようにぶらさげることにしました。「動く」ことを目的としたのではなく、その「位置」関係がネライです。 

(9)ただ、今回は「壁面」に接しての展示のため、「裏面」が見えないことと、「脊髄」を中央にして前後の「空間性」が味わえないのが残念です。 

★10/27~28「長居アートステージ」では、作品を「宙吊り」展示させてもらいますので、両面そして空間性を観ていただくことができますので、私も楽しみにしています。 

(10)最後に、「脳」の一般的な形(メロンパン?)ではなく、四角いキャンバスそのものを脳と位置付けることによって、また一歩「写実」ではない表現ができたかな?

・・・あれこれ書き連ねましたが、本日の搬出前に「合評会」がありますので、他のメンバーがどのように葛藤・苦労をされたのか聞くことができます。そのうえで、「知る」=自分自身を知り、次の課題を知る=という今回のテーマに帰結できるのではと思っています。ははは

本歌を極めるためのウェブサイト8個

秘密戦隊ゴレンジャー

50年)から(昭和52年まで、NET(現・)系列で毎週土曜19:30 – 20:00()に全84話が放送された、NET・制作の及び作中で主人公たちが変身したヒーローのチーム名 

集合時の名乗りは、「5人揃って、ゴレンジャー!」。大野剣友会時の、勢ぞろいした5人が右の掌を前に掲げる決めポーズは、師のが歌舞伎の『』から採ったものである

 歌舞伎の『』が「五人揃ってゴレンジャー」の名乗りポーズの原典である

白浪五人男

青砥稿花紅彩画/あおとぞうし はなの にしきえ

2年3月3月に江戸で初演されたの演目。通称は「白浪五人男」(しらなみ ごにんおとこ)。()、作、全三幕九場。

弁天小僧の出がある場のみを上演する際には『弁天娘女男白浪』(べんてんむすめ めおの しらなみ)と外題が替わり、さらにそれをがつとめる舞台に限っては特に『音菊弁天小僧』(おとにきく べんてんこぞう)と外題が替わることもある。

何度も映画になり、名科白「知らざあ言って聞かせやしょう」があることから、素人芝居でよく演じられた。

、と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。

明治の名優の出世芸となった作品。17歳の時から生涯6度演じており、最後の舞台も弁天小僧だった。菊五郎の自伝によれば芝居の関係者の直助と言う男が画のを見せに来たら、自分自身が弁天小僧の扮装で抜き身の刀を床に突き刺して酒を飲む絵柄だったので早速河竹新七に脚色を依頼したとある。

別の説ではある日新七が両国橋で女物の着物を着た美青年を見かけてみてふと思いつき、そのことを豊国に話すと豊国はそれを錦絵にしてさらに新七がそれをもとに劇化したという。劇の宣伝文である「語り」には「豐國漫畫姿其儘歌舞伎仕組義賊傳」(大意:豊国の下絵に描かれた姿をそのまま歌舞伎に仕立て上げた義賊伝である)とあり、いずれにせよ豊国の作品からヒントを得て作られたことは間違いない。

弁天小僧は戦前は五代目の実子の、、戦後は、、そして現在は五代目の曾孫の、さらにその子の、ほかにらに受け継がれている。

「白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)や、二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」では「志らなみ」の字を染め抜いた番傘を差して男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りが名高い。花道を堂々と登場後、舞台に来て捕り手を前に五人組が勢揃い。一人ずつ「渡り台詞」で見得を切り、縁語や掛詞を駆使した七五調のリズミカルな「連ね」で名乗る姿には歌舞伎の様式美が凝縮されている。この様式ははるか後世の『』を初めとする子供向け「戦隊もの」のヒーロー番組にまで受け継がれている。大詰第一場(極楽寺屋根立腹の場)の弁天小僧切腹から第二場(極楽寺山門の場)の駄右衛門登場に至る「」も目を惹く。

「青砥」は追っ手の名前に因む。歌舞伎の人気狂言『』『新薄雪物語』『』などの有名な場面を「」した場面も見られ、それをまったく新しい作品に作り変えた作者黙阿弥の機知に富む傑作。

白浪五人男

稲瀬川勢揃いの場 


文久二年 (1862) 三月江戸初演時の役者絵。 画、大判三枚続物。左から三代目關三十郎の日本駄右衛門、初代岩井粂三郎の赤星十三郎、四代目中村芝翫の南郷力丸、初代河原崎権十郎の忠信利平、十三代目市村羽左衛門の弁天小僧菊之助。

白浪五人男にはそれぞれモデルとなった実在・架空の人物がいることが知られている。


本歌 関連ツイート

RT @sizumi4321: ざっと検索しただけでも

・本歌山姥切
・まんばちゃんの布の付喪神
・闇堕ちまんばちゃん
・まんばちゃんが修行で捨てた布を拾った人

って意見が分かれてて面白いな🤔

本歌の銘めっちゃ長いのまんばちゃ界隈では常識だけど、その他の界隈だと知らないの仕方ないよな 源氏の名変わりみたいなやつ
☑️「人物」と言っているということは、人間なのでは?
☑️本歌だとして、なぜ本歌が布を?(まんばのはコンプレックス隠しのため自分でやっていたこと)
☑️本歌だとして、審神者と出会う前から人の形をしているのはおかしい

…という風に、否定材料も多いのよなぁ。

RT @mosaic_saniwa: まんばちゃんって「本歌にそっくりな見た目を布で隠してた」ではなく「布まで本歌とおそろいだから、布をボロボロにすることで本歌と差をつけた」んだ
と思うとすごくしっくりきた

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