そろそろ本気で学びませんか? 本歌
*:..。o○ ○o。..:**:..。o○ ○o。..:*
『源氏物語』を使った心理学講座。
次回は、朱雀院の人生を観察する
、東京とオンラインで
9月14日、22日に開催します。
その後のスケジュールはです。
*:..。o○ ○o。..:**:..。o○ ○o。..:*
秋きぬと荻(をぎ)のはかぜのつげしよりおもひしことのたゞならぬ暮(くれ)
式子内親王
式子内親王集37
【口語訳】
荻の葉を揺らす風が
秋の訪れを告げてより、
かねてより心に抱いていた憂愁のおもいの
いっそう切実に募ってくる、
そんな、秋の夕暮れ。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
高円の尾花ふき越す秋風に紐解き開けな直ならずとも
池主 万葉集巻二〇、4295
荻の葉の吹き出づる風ぞ秋来ぬと人に知らるるしるしなりける
凡河内躬恒 古今和歌六帖第六、3717
吹く風の荻の上葉に訪れて今日こそ秋の立つ日なりけれ
藤原顕仲 堀河百首秋57
*:..。o○ ○o。..:*
聴覚から秋の訪れを知るのは
古典和歌の王道ですね。
荻の葉風には
恋人の訪れの暗示もあるので、
季節の歌に恋の想いを重ねた読み方も
できるかと思います。
もちろん、その読み方を
内親王自身の体験として読むのは
ご法度です。
この歌の初出は百首歌。
雑歌でも贈答歌でもないのに
百首歌の季節の歌に
体験や実感を盛り込むようなことは、
考えられません。
本歌の通販ランキングなどの情報を公開、プレゼントにも喜ばれる商品が満載です
日曜日に、第57回 を開催しました。テーマは、源実朝の『金槐和歌集』。
個人の歌集(私家集)は一般に、『和泉式部集』『紫式部集』というように、歌人の名でシンプルに呼ばれることが多いのですが、源実朝の場合、『金槐和歌集』というきれいな名前が付いています。
「金」は「鎌」(鎌倉)の偏から、「槐」は大臣を意味する「槐門」から来たと言われています。百人一首でも、彼は「鎌倉右大臣」という名で表されていますが、そういう名前の付け方なのですね。
実朝がこの和歌集を編んだのは建暦3年(建保元年、1214年)。当時数え年で22歳で、征夷大将軍である以外には、右近衛中将・美作権守の地位にあった時期でした。大臣になるのはもう数年後のことです。
従って、この和歌集は、彼の死後に『金槐和歌集』と称されるようになったのでしょう。
今回の会では、実朝の和歌を19首ご紹介しましたが、ご参加の皆様に特に人気だったのは、
「現とも夢とも知らぬ世にしあれば ありとてありと頼むべき身か」
「大海の磯もとどろに寄する波 破れて砕けて避けて散るかも」
でした。
ついつい儚い彼の運命と重ね合わせて読みたくなる無常の歌と、都の貴族にはなかなか詠めないであろう力強い歌ですね。
「桜花咲き散るみれば山里にわれぞ多くの春は経にける」
にも複数票が入りました。
こちらは、
・植ゑし時花見むとしも思はぬに咲き散る見れば齢老いにけり(『後撰集』春中、藤原すけもと)
・はかなくて過ぎにし方を数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける(『新古今和歌集』春下、式子内親王)
に基づいて詠んだと見られる歌です。いわゆる本歌取りなのですが、彼の師匠でもある藤原定家は、
・最近(八十年以内)の作品を
本歌取りはしない方が良い
・古歌から採るのは二句程度まで
・
本歌とは異なるテーマの歌にするのが良い
と説いていますので、そのルールには従っていないことになります。(新古今和歌集所収の同時代人の歌を使ったり、
本歌と同じテーマを詠んだりしています)
実朝の場合は、技法としての本歌取りというよりも、古歌を読み込んで、言葉や歌枕、美意識などを自分の中に吸収したのだろうと思います。それが作歌の中に流れ出してきたように感じました。
私として印象に残っている歌は、何だか近代人のような印象を受けた次の歌。
「神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは」
この歌も複数票でした。
最新情報は・
和歌・俳句の英訳(・)更新中
始めました
取材・執筆・講演などの依頼は
吉田裕子担当の講座
本歌も、こだわって選びたい!
ついこの前、大阪は西天満のギャラリーから後関裕士さんの個展の案内状が届いた。そこに載っていた作品のひとつに、初代大樋長左衛門の「聖(ひじり)」に似た茶碗があった。腰から口にかけて円筒の円がドリフトしていく烏帽子のような独特の形をしていて、歴代長左衛門の写しはあるが、それ以外ではめったにみない。初代はこれに大樋のトレードマークである飴釉をかけたが、後関さんのそれは引き出し黒。
本歌を知ってのことかと思いながら、たぶん、御作の様子からすると知らないだろうなとも思いながら、それでも、どんなひとかなとDMのプロフィールをみると、備前で修行をし、師匠が何と伊勢崎淳さんだという。独立してまだ間がない新人のようだが、備前をやって大樋、しかも仕上げは引き出し黒とはこりゃ変わり種だなと興味が湧いてきて、個展の初日に出かけてみた。
御本人が在廊されていたので、これ幸いと、あの茶碗は何かをイメージして?とお尋ねすると、やはり
本歌のことは御存じなく、「光悦を意識して茶碗をつくっていたら、自然とこんな風になりました」。御作を拝見する限りでは、茶碗はもちろんぐい呑みにしてもまだ駆け出しの印象は拭い難く、これぞという作品はなかった。それでも、この方は、何と表現したらいいか、ぼてっとしたその造形がまだまだな感を誘うが、そのぼんやりとした雰囲気のなかにいまだ真になり得ていない形式が潜んでいるようで、いつもありがちな「こりゃダメだ」という風にはならなかった。作家がどれほど興味があるかは知らないが、それこそ「聖」のような古作を識れば識るほど、余計なところがそぎおとされて、もっと見応えのある作品が生まれるのではないかと思った。
後関さんは独立して千葉にいるそうだ。せっかく伊勢崎さんのところで修行したのにどうして備前ではなく千葉なのかと尋ねると、作家は「実家が千葉で、備前以外にも色々やりたいこともありまして」と答える。確かに、作品には備前だけでなく、それ以外に織部や引き出し黒、信楽などもあった。初対面の一見さんに答えられることは限られていることも承知している。それにしても、せっかく備前で、しかも人間国宝に学んでいながら、その地で窯を構えないのは何とももったいないと素人は思ってしまう。千葉で備前ができるように、備前で織部もできるはず。しかも、作家は、備前の土を何トンも手に入れて、かの地で保管しているというし、まだ自前の薪窯をもたないので備前を焼くときには、現地の窯を借りているとのこと。もちろん私的な事情も絡むことなので一概にその是非を云々することは失礼に当たる。とはいえ、後関さんに限らず、今日、備前にいることなく備前を焼く作家が増えていることは確かだ。これを裏返せば、備前に取り組む作家にとって、今やこの産地の名門にいる理由がなくなっていることを意味している。
後関さんのダイヤモンドの原石のような御作のなかで触手が伸びたのは、結局、写真の肩付の徳利だった。作家によれば「修行中にこの徳利は徹底的に仕込まれました」とのこと。あー、やっぱりな、と思うと同時に、これぞ産地の醍醐味だな、と少し安心できた。備前の先端を行くほどの窯で、古来の基本的な形式が伝えられている事実は、やはり備前が産地の名門としての役割をまだ維持していることを証明している。ただ、そんな地道な修練がなされているのに、世に出てくる作品に、たとえば傘徳利や舟徳利がないのはどうしたことか。備前の素朴な魅力に憑かれている者にしてみれば、つまらない小細工の施されたぼったくり作品よりも、それこそ熟練の手になるスタンダードな実用品のほうがはるかに好ましい。小賢しい個性を追い求めるよりも、産地の歴史を振り返ったほうがよほど新しさに出会えることに、皆さんそろそろ気づいてよさそうなものだ。これだけの大産地なのだから、産地全体で備前焼博覧会を演出することもできよう。あらゆる時代のあらゆる様式の備前焼が並ぶなか、たとえば後関さんの「聖」が引き出し黒でなく備前の焼き締めであったとすれば、それは素敵な景色になるにちがいない。ぼったくるための「様々なる意匠」よりも、先人たちが窯場として築いてきた財産を良心的に提供することのほうが、どこかしら憂鬱な今の備前には必要とされているのではないか。備前とは別の土地で備前に取り組むこの若い作家にお会いして、改めてその念を強くした。