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『源氏物語』を使った心理学講座。
次回は、朱雀院の人生を観察する
、東京とオンラインで
9月14日、22日に開催します。
その後のスケジュールはです。
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はじめなき夢を夢ともしらずしてこのをはりにやさめはてぬべき
式子内親王
式子内親王集99
【口語訳】
いつ始まったともわからぬ
無明長夜の夢のこの世。
夢を夢とも気づかず確かなものと信じ
もがき苦しむ人間。
命の尽きて夢が終わる時にさえ、
果たして私たちは
夢から醒めることができるのだろうか。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
はじめなき夜:無明長夜
このをはりにやさめはてぬべき:
この人生の終わりには
夢から覚め果てて悟ることが
できるものだろうか、いや。
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現存する最初の内親王の百首歌の
99首目です。
式子内親王 新古今和歌集釈教1970
も同じく世の無常を詠んだもので、
どちらが先か確かめていませんが、
歌のこなれ具合を考えると
「しづかなる」のほうが後ではないかと
私は考えます。
「しづかなる」の初出である百首歌が
現存していないので、
前後を調べるのが難儀でして。
なぜか本歌が高円寺で大ブーム
なぜプラトニスムはシミュラークルをそれほど警戒するのか。それは、シミュラークルがプラトニスムに内在する表象作用のしかけを暴きたて、告発するからにほかならない。多くのコピーの間にシミュラークル(偽物)が混じることによって、どこかでイデア=オリジナルが捏造されていて、コピーの根拠がオリジナルと似ていることであるという構図がくっきりと浮かびあがってくるからである。キリスト教徒のふりをする異教徒の存在は、絶対視されるべきキリスト教以外にも宗教があり得ることを示唆することによってこれを相対化し、人間が神のコピーであるというキリスト教特有の表象作用を露わにする。「シミュラークルは程度の落ちたコピーではなく、オリジナルとコピー、モデルと複製を否定する積極的な力を隠している」。シミュラークルは、プラトニスムの根拠をなす表象作用のしくみそのものを否定する。だからこそ、プラトニスムはこれを徹底して弾圧しなければならない。
オリジナル、コピー、シミュラークルというこの関係性を、やきものの写しの世界に応用して考えたらどうか。たとえば、たまたま「もどき」という名前をもった大前さんのこの作品は、図らずもシミュラークルの役割を担っているとはいえまいか。その場合、いうまでもなく、オリジナルは
本歌、写しはコピーに相当する。いかに
本歌に迫る写しをつくるか。すなわち、良いコピーをつくることが写し手の使命である。李朝や光悦を相手にする大前さんの仕事の多くをこれが占める。だが、この「志野もどき」はそれとは異質である。先に示したように、この作品は
本歌に迫ろうとはしていない。確かに、志野の特徴を備えてはいるものの、それは、それぞれに強調されたり、抑制されたりして、
本歌とは微妙に異なる趣きを呈している。さらに、素材は井戸のそれでもある。つまり、それは、異教徒がキリスト教徒になりすましているように、志野を偽装しているのだ。「張り合って真似る、非難する、悪口をいう」などの意味をもつ「もどく」は、大前さんの作品において、まさにシミュラークルが果たす役割と符合する。「シミュラークルは、対象、性質などを、父に背き、イデアに頼らないで、攻撃、阿諛、破壊によって、こっそりと要求する」。
「志野もどき」は、
本歌と写しとの表象作用を告発し、否定する。ただ、ここで重要なのはそんなことではない。写しが真の創造行為よりも一段も二段も低くみられているのは昔から変わらない。
本歌を真似ているだけで、オリジナリティを欠くという紋切り型のあれである。だが、もどき=シミュラークルの刃(やいば)は、むしろ、そんな見方のほうにこそ向けられている。「シミュラークルは新たな根拠ではなく、あらゆる根拠を消滅させ、普遍的な崩壊を確実にする。しかしそれは積極的で陽気なできごととして、根拠の破壊としてである」。真の創造行為は絶えずオリジナリティを追求する。自らの個性が表現できてこそ真の作家である、と。志野や井戸や光悦とも違う、その向こうを張るようなオリジナルをつくることこそが真の創造行為なのだ。だが、この野望もまた、新たな「根拠」を求めている点において、プラトニスムの罠にはまっているのではないか。新しく完成した(と思い込んでいる)オリジナルはイデアになりたがっていて、それに追随する新たなコピーを募集し始める。もどき=シミュラークルが破壊するのは、良いコピーや悪いコピーの根拠となるオリジナルという概念そのものにほかならない。それに捕らわれてしまう結果として、あいもかわらず権威を盲信したり、異端を抑圧する傾向が蔓延するのだ。大前さんの「志野もどき」は、いつものように「写す」のではなく「もどく」ことによって、奇しくもシミュラークルの役割を果たしているようにみえる。それは、まさに「積極的で陽気なできごととして」、やきものにおけるプラトニスムを告発し、否定するのだ。
ハルカスの会場でこの作品と出会ってしまったがために、作家がせっかくもってきて下さった塩笥井戸は、またも見送りとなった。次こそはと思っているが、あるいはすでにどなたかの所有に帰しているかもしれない。それはそれで結構なことだ。大前流の写しの美学を共有できる方がたくさんいることは望ましい。写しはけっして程度の低い仕事ではない。むしろ、プラトニスムの生け贄になっているとも知らずにオリジナルを主張する向きのナイーブさを指摘するべきだ。それに比べれば、コピーと自覚して取り組む仕事のほうがよほど潔い。オリジナルとの同一性を追求するうえで、どうしても生じてしまう差異こそが、コピーをコピーから解放する。そして、「もどき」の大前さんのように、これを確信犯的に実現する試みは、新しい写しの亜種として、というよりもひとつの独立したスタイルとして認められていい。この作家には「写し」の仕事で期待するところがまだまだあるが、これからはこの「もどき」がどのように展開していくのか楽しみでもある。ドゥルーズが哲学に対してそうだったように、大前さんには、やきものの世界を支配する権威主義に対して、たちの悪さを遺憾無く発揮してほしいものだ。
※文中の引用はすべてジル・ドゥルーズ『意味の論理学』(法政大学出版局)中の「プラトンとシミュラークル」による。
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昨日からのまとめヾ(@°▽°@)ノ
ひとみさん&けんじさんの家に遊びに行き、のんちゃんと戯れる!
のんちゃんにチワワ用のハーネスをつけると、全力でいやがってましたヾ(▼ヘ▼;)
遊びつかれたのんちゃん・・・
オブジェ化して寝ちゃいました
この体勢でぐっすり!!!!
その後、OSK本歌劇団の現役の娘役、かほりんこと妃那マリカちゃんも来て
4人で行った先は
やっぱりナンカレー(笑)
この4人、それぞれ週1~2回は必ず食べてます(笑)
美味しくいただいて、解散!
かほりんがグッズをくれました
クリアファイルo(^▽^)o
(書いてくれた名前・・・本名なので、一応伏せてみた笑)
帰って速攻寝て、今日は朝早くから行動!!
イタリア語を沢山聞いたんですが・・
イタリア人の方って本当に巻き舌が上手いですね!!!
っていうのが感想です(笑)
で、夜は・・・・
またナンカレー食べちゃったヘ(゚∀゚*)ノ
で、初めて飲んでみました
インドの地ビール!!
もともとビールって苦くて飲めないんですが、「女性にもおすすめ」って書いてあったし
ネタとして飲んでみたけど
やっぱり苦かった(・Θ・;)
そのあとひさーしぶりにカラオケに行き、
中島みゆきさんを大熱唱して帰ってきましたヾ(@°▽°@)ノ
いい2日間でした(笑)